🧫

ゆめかわ日記

Fediverseは平等に分散されるべきなのか

2016年ぐらいから結構話題になっているFediverseなるものがありますね。

 

ざっくりいうとMastodonやMisskeyと言った、相互間で連合を結び、各サーバー同士が緩く広くつながることで、サーバー単体が大小どんな規模であっても大きなネットワークとして存在しているっていう感じの概念ですね。

 

この概念があればTwitterやFacebookのように特定のサービスに皆が登録していなくても、どこかしらのサービスのアカウントさえあれば誰とでも使えるといったような利便性が享受できます。非常に画期的な概念ですね。

 

しかし、23年7月、かねてより経営譲渡がなされていたTwitter社のサービスの根幹が崩れるといった事態が発生した最中、SNS業界でもゲルマン民族の大移動が発生しました。

 

従来であればTwitterという超有名なサービスに数億人が登録していて、MastodonやMisskeyのようなサービスはインターネットに詳しい一部の方々が利用されるマイナーなコンテンツだったのですがが、この事案につき状況が一変、インターネットをやっていれば誰もが知っているようなサービスに変化を遂げようとしています。

 

例えばMisskeyの大規模サーバーであるMisskey.ioに関しては、22年の12月時点で登録者が3000人ぐらいしかいなかったのが40万人越えに膨れ上がり、Mastodon系統のFedibirdに関しても同様に利用者が倍増し新規登録を制限する形で満員状態を調整しています。

 

MastodonやMisskeyは法人やネットワークの知識に長けていなくても気軽にサービスを運営できるプラットフォームであるため、数千あるそのサーバーの大多数は一般人が運営しています。

 

そのため昨今の予想外の流入に関しては少なからずともどの運営者も影響を受け、サーバー強化や運営管理の見直しなどを行っているようで賑やかながら慌ただしい現状です。

 

時事に関してはここまでにしておき、本題に入ります。

 

フェディバースの恩恵は各サーバーが緩やかに連携することによって、どのアカウントからでも広く緩く関係を持てる柔軟さにあるという点を先に述べたと思うのですが、果たしてこのフェディバースは「平等に分散されているべき」なのでしょうか。

 

そもそも、フェディバースと分散って別だろ、何が関係あるのかという意見も出るだろうと思います。これに関してはフェディバースとSNSにおける分散のイデオロギーから遡って考えなければなりません。

 

簡潔に言うと、フェディバースと分散という概念については全く別物です。

 

分散型SNSというのは、狭義の意味では「あるプラットフォームに一強状態の権限を付与するのではなく、色々なSNSが存在し、ユーザーがどのSNSを選んだとしても何ら損益や特別の利益を被ることなく平等なユーザー体験が出来ることを実現する」という趣旨にあります。

 

この点を考えるとフェディバースとの趣旨とは根本的な部分が異なってきますが、これを実現するためにはフェディバースの概念を間接的援用する必要があります。

 

具体的に言いますと、平等なユーザー体験を実現すると言ったとしても大小さまざまなSNSがありますから、その大きさによる情報の偏在性というものは当然生じます。この必然的に生ずる偏在性を是正するために使うのがフェディバースにおける連合概念です。連合を行えばSNS間で通信が行えるため、大小問わず情報が取得できるという訳です。

 

ここでは分散型SNSの目線からフェディバースを観ましたが、逆も然りです。

 

分散可能であるからこそ、フェディバースという概念が存在し、色々な情報を相互間で連携できると考えると、分散していることは重要でありますね。

 

要するに僕が言いたいのはFediverse=分散 ではなく Fediverse≒分散であるという点に着目する必要があるという事です。Fediverseと分散を同一視してしまう考えを取ると、半ば平等性を過度に衒った過激な思想を持ちかねないと思います。分散状態「である」ことと分散「する」ことは異なります。

 

以上の点を踏まえて、この話題に触れるとすると、

結論として「フェディバースでは平等に分散されていなくてもいい」

という私見を出しておきます。宗教的にこの意見が納得いかない場合は

申し訳ないですが僕の糞みたいな日記を見てしまったことに悔やんで頂く他ありません。

 

何故平等に分散されていなくてもいいと考えるかに関しては、Fediverseの趣旨が根拠に挙がります。相互間で連合を結び、各サーバー同士が緩く広くつながることで、サーバー単体が大小どんな規模であっても大きなネットワークとして存在しているっていう感じの概念なんだから、繋がりさえしていればどんな規模や様態のサーバーであれど情報は取得できます。

 

仮にどこかのサービスに偏って多く登録者がいたとしても、それが原因でフェディバースの概念が崩れることはありません。

また、負荷分散の概念を根拠に出したとしても、特定のサービスに利用者が集中して管理者の負荷が増えたとしても、管理者が新規登録を閉じてしまえば他のユーザーが新しくサーバーを建てたり、まだ余裕のあるサービスに移動したりすることが出来、連合で繋がっている以上従来のサービスにいた住人と関係が途絶えることはありません。

 

結局のところ、フェディバースの体制を取ってさえおけば、規模が大きかろうが小さかろうが「なるようになる」んです。

その点を考えると、MisskeyやMastodonの概念の在り方について過度に矯正をしよう趣旨は別に気にしなくてもいいもんじゃないかなと思います。(むしろ矯正的な考えがあったとしたら誰も自由にSNSを建てようと思わないし村社会化が加速すると思う...)

 

ぶっちゃけた話「Fediverseは平等に分散されるべき」という考えが出るっていうのは、フェディバースたる理念について考えてるんじゃなくて「大規模サーバーが連合を切ってしまったらどうしよう...」という不安を概念論にぶつけてるだけだと思います。

 

それに関してはしゃーないとしか言いようがないんじゃないでしょうか。サービス運営者も一般人ですから、運営方法を選ぶ権利はあります。だからどれだけ規模が大きかろうが、話し合いの末連合をやめるというならやめるまでです。一サービスが辞めたからと言ってフェディバースの概念は死ぬことはありません。限界事例ですね。

 

そもそも、分散型SNSの概念は皆が好きな場所を選べるっていう所にあると思うので、誰がどこを選ぶかについて指摘を入れたりナッジを設けることはその趣旨に反すると思うのですが、どうなんでしょうね。

概念を実現するために強制力を行使することに関しては疑問を感じます。

 

ところで、

 

余談として。フェディバースを終焉へともたらすものは何でしょう?

 

個人的にはそれはきっとMisskeyかMastodonかその他のサービスがOSSをやめてしまうという点にあると思います。

いずれかのサービスがOSSをやめてしまうと、誰もが自由にサービスを運営できると言う概念に強い打撃を与えます。

 

あるいは法規制により民間人がSNSを立てられなくなる。

 

どちらもなさそうでありそうなタラればですから、こっちの方を問題視すべきではないかと思いますね。

とりわけ後者に関してはGDPRや昨今の法改正の動向を見れば否定できないものですから...

 

 

 

 

 

 

 

当ブログの投稿内容において、具体的な根拠や出典を明示していない限り、根拠や出典の存在を一切保証しません。また、根拠や出典が明示されているか否かにかかわらず、根拠や出典の妥当性・真実性を保証しません。

尚、実際の人物や団体に影響が出ないようにある程度抽象化したり脚色したりすることもあります。ここに出てくる登場人物や出来事は全て夢の中で起こっているようなものという感覚で読んでいただけると幸いです。